大人気シリーズ「龍が如く」主人公桐生一馬のすごさに迫る!
セガゲームスによって2005年12月8日にPS2で発売されたアクションアドベンチャーゲーム。
「実在の繁華街」がコンセプトで、成人男性をターゲットとして、新宿で生きる「極道」の世界を舞台としています。
男の中の男、極道の道として圧倒的な存在感を見せつける人物、その名も
堂島の龍、桐生一馬
その存在感やたるや、誰が見ても圧巻の一言です。シリーズ1の桐生一馬は当時27歳。そんな若くてここまでオーラなんて出ないとは思いますが、、、
もともと桐生一馬は「東城会直系堂島組」の舎弟頭補佐として登場します。いわゆる極道でいう「ヤクザ」の世界です。
たとえそれが極道の世界であれカタギの世界であれ、彼は圧倒的な強さと、彼自身の揺るぎない絆を誰よりも大切にする情の深い人間です。
今回はそんな東城会4代目会長まで上り詰めた「桐生一馬」のすごさについて、色々ストーリーで語り尽くしたい部分はあるのですが、特に彼の持つ信念から見ていこうと思います。
(1)圧倒的な正義、圧倒的な強さ
桐生一馬を語る上で、一言で表すならば「とにかく強い」ということです。
極道の世界ですから戦う時は殴り合いの喧嘩、時にギャングとの抗争で銃撃戦にも巻き込まれます。
しかし彼はどんな状況であれ、どんなに自分が追い込まれることがあっても、自分の仲間が危険に晒されている時に拳一つで立ち向かいます。
そして敵が何人いようが実際ににボコボコに倒してしまうのです。
ストーリーの中で、桐生一馬は本当にたくさんの事件に巻き込まれます。桐生の兄弟分(親友のような関係)、自分たちが育てた養護施設内の子供達、極道の世界の風間のおやっさん(極道の世界に入れてくれた恩師)、周りの人たちが次々に犠牲になっていくのを全力で引き止めます。
その彼の曲げない正義感と、仲間のために戦う意思は果てしない絆を感じます。
見れば見るほど男として惚れる男です。
(2)ちょっと不器用で、根はすごく純粋
彼のすごさは圧倒的すごさだけではなく、身近な人間性にも表れています。
普段あまり喋らない桐生一馬ですが、あらゆることに全力です。ポケサーファイターで子供達と真剣に勝負している姿を見ると少し可愛いと思ってしまいます。
とにかく人に対しての面倒見が良いお人好しで、他人のために自分を犠牲にしてまで尽くしてしまうところが、彼の魅力の一つだと思います。
決して損得勘定で動かず、しっかり人を見定めているところもさすがです。
本当にこれはマジで面白いですwww
特に3:46から見所。
なんでいい歳したヤクザが本気にこんなに夢中になれるのか、ちょっとその場にいたら笑ってしまうかもしれません。
ちょっと見た目が見た目なので怖いですが。
こういった童心に帰るところがまた魅力の一つなのかもしれません。
(3)桐生一馬の親友、真島吾朗の存在
桐生一馬の仲間の中でも、とりわけ人気があるのがこの「真島吾朗」という存在。
彼も東城会直系真島組のボスです。めちゃくちゃ強いし怖い。
そしてその人間性がなんともチャーミングで、そのフランクで狂ったところが、龍が如くの中で圧倒的に支持を埋めている理由です。
実際に視聴者人気でまさかの桐生一馬を超える1位にランクイン。
「桐生ちゃああああん!!!」というフレーズが彼の持ち味。
そのあと毎回楽しい喧嘩をします。
この人が実は、龍が如くの物語で大きな影響を与えるキーパーソンです。ストーリーの中でいろんなターニングポイントで登場します。
真島吾朗はとにかく男気があって強い人が好きで、桐生一馬のことを愛しています。
その男同士の友情がまた見ていて惹きつけられるのです。
桐生一馬はそういった強い人たちをどんどん仲間にしていく、ドラゴンボールの孫悟空のようなカリスマ性があります。
真島吾朗も桐生一馬も根はものすごく真面目で、恩義や絆を本当に大切にします。
そういった面で彼らの人気は衰えることを知らないのですね。
まとめ
この龍が如くという物語そのものとても作り込んでいて、自分でも想定していない展開が待っています。単純にムービーシーンを追って見るだけでも、映画一本分以上のボリュームとインパクトがあります。
サブイベントややりこみ要素もあるのでこのゲームは本当にハマるゲームです。
渋いゲームかと最初は思っていましたが、実はとてもコミカルで、見ているだけでも満足感が得られます。
それにしてもこの桐生一馬という存在は現実にいなくても、僕たちが彼から学べることは本当にたくさんあります。
人との関係で忘れてはならない本質、友情、信頼、その全てが彼の行動から見ることができるんです。
まだ見たことがない人は、ぜひYouTubeやゲームソフトから桐生一馬の人間性をご覧ください。
人生とは富士山の様なもの
新年明けましておめでとうございます。
ブログを開設して約1ヶ月、心新たにしてこのブログも続けていこうと思います。
2020年がどんな一年になっていくのか、自分でも凄く楽しみです。
さてタイトルにもあるように、「人生とは富士山のようなものだ」ということについて話そうと思います。せっかくの元旦で、大きな事を語るにふさわしい1日だと思ったので。
富士山といえば、日本の一つの象徴でもあり、この美しい山は日本だけでなく世界でも高い評価を受けています。
僕はいまアメリカに留学しているのですが、その授業の中で富士山の出来た軌跡やその尊さについて学ぶ事があったほどです。
それほど観光客からにも人気がありその美しさは他の山と比べても群を抜くものがあります。
そんな中で僕はその富士山を「人生」と捉えました。
富士山にも二つの側面があります。
遠くから見てみると美しい景色として見えますが、いざ富士山を登ろうと思うと目の前は苦しい景色しか見えません。
実際に富士山を登ろうと思うと、あの極寒の中で足元は危なく、噴火してしまう危険性もゼロではありません。
外から見える景色と内側から見える本質は対極に位置する事がよくあると思います。
「隣の芝生は青い」という言葉も、これに関係しています。
例えば幸せそうに見えるカップルや夫婦も、側から見たら羨ましい限りの光景です。しかし当事者からすれば大きな衝突を経験したり、必ずしも幸せな事ばかりでは無いはずです。
必ずしも友達が多ければ幸せというわけでもないし、かと言ってずっと外側の人間で居続けたら人生の張りが全くない。
なんとも人生って難しいですよね。
しかし富士山の頂上まで登った瞬間に、麓から見ていたあの景色とは格別の絶景を見ることができるんです。
これは本当の意味で登りきった人にしか得ることのできない感覚。登っていて9割くらい大変だったことしかないけれど、その分の感動は今までの比ではないと思います。
だからいつでも、ただ外からのぞいているだけは言ってしまえば凄く楽な事なんです。
時間は平等に与えられています。そして自分が生きる世界は自分で選ぶ事が出来る日本に私たちは生まれました。
行動するからこそ、新しい壁にぶつかり、その度精神的にも肉体的にも大変なストレスがかかるわけです。
けれどそう言った経験も、実際に自分が行動しなければ決して見ることのなかった景色なんだと、僕はこの短い21年間の人生で一つ学べました。
当然、物事うまくいかないことの方が多いし、社会人になれば学生の頃とは桁違いの壁を経験するはずです。こうやって余裕こいていられるのも今のうちなのかもしれません。
しかし僕は外側からも内側からも、富士山という名の人生を体感したいのです。
本当に口で言うことは簡単で、その言葉に対し何一つ達成できていない自分が存在していることも事実です。実際にそう言い聞かせて自分を無理やり正当化させ、ただカッコつけているだけなのかもしれません。
ただ何も動かず、全て外から覗くだけの人生を送りたくはありません。
いろいろな環境でいろいろな経験をしますが、その経験は行動から来るもので、行動が自分を大きく成長してくれます。
だから2020年の一つの抱負として、
行動する年
今まで以上に意識して、今年1年僕らしく頑張っていこうと思います。
ただ、あまりそれに固執してしまうと、本来自分は縛り付けることで萎縮してしまい本来の力が出せなくなってしまう性格です。
あくまでも僕のペースで、楽しみながら今年も富士山を登っていきます。
来年には自分は何号目まで登っているかな?
2019年の終わり、自分の心の変遷を振り返る
人生初めて年越しを日本以外の国で迎えることになります。
アメリカは日本より一日遅れていますから、謹賀新年は明後日ということになりますね。
日本各地で忘年会が行われている中、僕は家でブログを書いています。
今年ももう終わるということで、今年の振り返りをしていこうと思います。
今年は「成人式」からスタートしました。
正式に大人の門をくぐることで、周りの人たちの雰囲気もかなり風格を持つようになって行きました。二十歳を過ぎるともなるとお酒も入り、女性は特に中学生とは全くオーラが違う印象を持ちました。地元の友達は相変わらずでしたが(笑)
今年は環境の変化が非常に多かったように思います。
サークルや劇団も引退し、比較的自由な時間が多かった今年一年は自分が住んでいるところ以外のいろんな場所に行ったり、普段会わないような人たちとも交流を持つことがありました。
とりわけ自分の環境を大きく変えたのが「留学」です。
大学生になる時に都心部に上京して環境が大きく変わりましたが、住んでいる「国」が変わるのは人生初めてです。
今まで以上に異国の環境で過ごす経験をさせてもらえました。
英語の勉強や、新しい環境に慣れることもそうですが、短期的ではなく長期的にアメリカで過ごし、ほぼ全てを英語で生活するという日本人からすると珍しい貴重な体験をすることができました。
もちろん予想はしていましたが、やはり留学というのは単に英語だけが大変だったというわけではありませんでした。
むしろ英語を日常生活レベルで話すことはすぐに慣れましたが、海外で起こりうる自分にとって想定外の事態になったときにどう行動するかの方が大変でした。
頼れる味方が日本にいた時より明らかに少ないので、自分の身は自分で守るしかありません。
いざとなった時にこそ、いかに自分が自分らしく行動に移すことができるか、この部分を修行する一年だったと思います。
とりわけ大学生活の中で、自分の心の変化も大きかったように思います。
僕はもともと全く強い心を持っていませんでした。
いわゆるガラスのハート、いやもっとかな?カバーガラスくらいのメンタルしか持っていませんでした。
僕は大学時代に入るまで、「戦う」ということを知りませんでした。
RPGゲームで敵と遭遇した時に自分の持つコマンドを選ぶのを例えるならば
こんな感じです。ダサすぎますねw
とにかく戦争が嫌いで、できることなら全て事なかれで自分に非がなくてもとりあえず謝るか逃げるか、くらいでしか自分を守ることができませんでした。
しかも僕はHSP気質なので、とりわけ人間関係では敏感に反応してしまう。昔から気が弱いことを自覚し、そのことを自分のコンプレックスとして生きてきました。
しかし大学時代に入ると、例のブラックサークルに入ることで、今度は「逃げる」という選択肢すら与えてもらえない状況を経験しました。
その時に出会ったたった一人の親友の言葉が僕の人生観そのものを大きく変えてくれました。
「お前が覚悟決めて本気出せば、誰にも負けやしないから。」
初めて聞いた時は衝撃を覚えました。
今までおどおどしていた自分を大きく変えてくれた一言です。
なぜかその親友の言ってくれたその一言が、僕にとっての揺るがぬ自信に繋がったのです。
それから僕は自分をなめてかかる人に対する戦いに対しては決して逃げないようになりました。
もちろん基本的には戦いなんてしたくありませんし、あまり褒められた話でもありません。けれど自分の守るために必要な「戦い」も確かに存在するのも事実です。
明らかに態度や人としての筋がおかしい時、そして舐めて僕にかかってきた時は、たとえ相手が先輩であろうと毅然と振る舞いました。
「自分の心の持ちようを変えるだけで、ここまで周りの対応も違うのか。」
そう感じました。
特にあのブラックサークルにいた人たちの僕を見る目が完全に変わりました。
今まで二言目には「すみません」と言っていた僕が、明らかに正義に反した形で舐めてかかる人に関しては、たとえその議論が朝までかかろうが集団でかかろうが一歩も引く気は無く、完全に相手が参るまで徹底的なまでに強気で戦ったのです。
ここまで自分を変えてくれたのは、間違いなくあのブラックサークルで出会った唯一の親友の存在でした。
しかし、物事の全てを「勝ち負け」で判断できるほど、この世の中は簡単ではありません。自分が生きて行くに当たって、
自分をうまく環境に合わせてコントロールする力
も求められていることを学びます。
社会で生きて行くためには「戦う」と「逃げる」の二択ではうまく生きません。自分の居場所を確保するために、その環境にうまく馴染む力も当然必要になってくるのです。
それを踏まえて僕はこの留学という環境がそれを学ぶいい機会でした。完全に自分とは違う世界、また違った価値観に囲まれて生活する毎日。海外の人だけでなく、どちらかというと海外に住む日本人の方が大きく当てはまるように感じます。
今まで前の記事で書いてきたように、人は様々な価値観を持っており、その全てを共有することは難しいことを知っています。
その中で、自分にとって合わない存在が出てきたときに「戦う」「逃げる」という二つの選択肢しか無ければ今度苦しくなるのは他の誰でもなく自分自身です。
大学時代では、たくさんのコミュニティがあって自分にあった場所に自由に行くことができる環境だったので、あまり衝突するということ自体がありませんでした。
しかし会社などのクローズな関係の中で生活をするならば、逃げることも戦うこともできない環境は必ず存在します。そうなった時に自分がうまくその環境の中で対応することができなければ、自分はたちまち自分の居場所を失い、自分の首を絞めてしまうことになります。
2020年、新たな年を迎えるにあたって、一番乗り越えなくてはならない課題の一つが、
「逃げる」でも「戦う」でもない、うまく自分が与えられた環境で「こなす」力を身につけること。
もちろん自分の強みと弱みをきちんと自覚している必要があります。
そしてうまく「こなす」ことだけが、この社会の中で生きて行く中で必要なことの全てではありません。しかし自分を守るために、ある程度は必要であることもまた事実です。
せっかく今もある程度クローズな環境にいますので、この環境をうまく自分のものにしていく。2020年はそれを乗り越える試練に立ち向かおうと思います。
自分にとって一番難しいと思っていることではありますが、僕が社会人になる前に少しでも身につけて置きたいです。
他の誰でもなく、自分の身を自分で守っていくために。
1ヶ月ブログを運営してみて思ったこと
こんにちは、今日で約1ヶ月の運営が終わりました。
思えば早くてこの1ヶ月でいろんなことを学ばせてもらったと思います。
全くのゼロからのスタートでしたが、ブログを更新する毎に色んなことを経験できました。
当初の目標として、1ヶ月の目標が
「PV数1000, 読者登録100人」
でした。
実際ブログを毎日あげることも目標にしていましたが、2日間だけ更新できない部分があり、そこは自分の甘さだなと感じています。
PV数や読者数に関しては目標はたてましたがそこまで意識しないようにブログを書こうと思っていたので、自分が書きたい内容や伝えたい内容を書くことが出来たので非常にやってて楽しかったです。
結果はこのようになりました。
読者登録数188人、総アクセス数2009PV!
この数字は当初予定していた目標の約2倍になります。
皆さん僕のブログを読んでいただき、また読者登録していただき本当にありがとうございます。
気がついたら今日に至るまで50記事も書いていました。
実際にブログを書くことで、今まで経験してきた事や教訓を文字にして残すことができます。そしてTwitterみたいに限られた分量で書くのではなく、自分の思いの丈を自分の自由な形で表現できるこのスタイルが僕は大好きです。
ブログの良さは自分だけの一つの作品を多くの人に見ていただけることにあります。いつもスターを押してくださる読者様がそれを証明してくれています。
またコメントを残してくださる方もおり実際にそこから新たな価値観を共有する事も出来ます。
1ヶ月間続けた事で、最初は読者登録10人にも満たないブログもここまで成長することができました。本当に皆様のおかげです。
前にも読者数についてのブログを更新しましたが、初めての頃はより感動が大きかったことを覚えています。1日2記事も投稿していたので、もちろんクオリティーは低いですが相当力が入っていたなあと振り返ります。
ブログは友達や他人に口で話すとは違い、全て文字で自分の意見を表現しなくてはいけません。
話を伝える際に例えば話す時であれば会話の前提があり、その中でのコミュニケーションを取ることができますがブログの場合は一からのスタートとなる分説明するスキルが一層求められます。
けれどこれはただ文字を書くだけではなく、自分の思いを上手く相手に伝えるための訓練として、非常に良い機会であると確信します。
そして、こうして記事を上げる事でその記録は残ります。将来の自分から見て僕はこんなことを思って書いていたと時間の流れでの成長を見ることもできる。これもブログの良さです。
2ヶ月目の目標のために頑張るというわけではありませんが、数字の目標として、
PV数4000,読者登録数300人。
これを2ヶ月目の指針としてこれからも頑張っていこうと思います。
皆さんこれからも宜しくお願いします。
辛い状況になっても一度許すということ
人間いろんな人と出会い、いろんな経験をする中で学ぶことが数多くあります。
それは時として自分の意に反することであったりすることもあるかもしれません。
人が生きている以上、どんな場所でも、どんな状況でさえ、様々な問題に遭遇するということは珍しくありません。学校の出し物を決めるときに意見が割れて、単なる意見交換のはずが白熱してしまった。ということも実際あり得ます。
このことに関しては場所や年齢に問わず、どんな状況でも起こりうることだと思うんです。
少し前の記事で、僕は本来ブラックサークルに所属していて、意見の対立を超えたレベルでの言い争いが耐えませんでした。それも人の尊厳を根底から踏みにじると感じてもおかしくないレベルの事だったので、自分自身短い人生ですが本気で腹を括ったのはこの時が初めてではなかったのかとも思います。
そしてそれと同時に、MPという英語劇団体で素晴らしい環境と人に出会うことができました。
人との絆について根本から考えさせられ、それを舞台という形でその集大成を最高の形で飾る、本当の意味での人と結ぶ「価値」を学ぶ瞬間でした。
その感動を詳しく書いているのはこちらです。合わせてお読みください。
その二つを同時に経験した今、僕にとっての一つの危機が訪れます。
当初から仲良くしていた友人がいるのですが、その人と大切な約束をしていました。これは一緒にご飯を待ち合わせをするという程度の約束ではなく、二人にとっての一つの絆を象徴させるほど大きな約束をしました。
しかし、それは突如として破られるわけです。僕からすると本当の意味で絶対に破られて欲しくなかったところを、一番破って欲しくない人にされてしまったのです。
怒りの前にまず悲しみが僕の感覚で先走りました。僕が今まで賭けていたものがあった分、どうしてこんなことになってしまったのだろう。当時はその現状を見たくはなかったのです。
けれどいつまでたってもその現実を捨て去ることができない。なんとしてでもこの感情をどうにかしなければ。。。
結局のところ、あのブラックサークルの時の激論と同レベルの感情にまで、僕は興奮していました。やはり信用があった分の一種の裏切りは、どうしても許し難かった部分があったと言わざるを得なかったのです。その当時はかなり自分でも動揺していたのでしょう。
何回も自分で自分を弁解しようとはしましたが、人間そんなコンピュータのようなデータ処理はできません。人間まだまだ捨てたものじゃない。理性と本能を超えたこの感情は、おそらく人間だからこそできることだと僕は思います。
どうしても自分だけでは話を片付けることができずにいた僕は直接本人と話をすることになりました。
結局のところ、お互いの意見の中で相手側に非があり、謝罪という形で落ち着いたのですが、この記事を書く今までこれから次どう接していくべきかを考えてしまう自分がいました。
確かに大切な約束を守らなかった相手側には問題はある。だからと言ってあそこまで感情的になる自分も行き過ぎた部分があった。そのなんとも言えぬ複雑な感情が僕の心の中で埋めいていたのです。
僕は一通りの件を終えて一人で考えた時、あのMPの人に教えてもらった言葉がありました。
それは、
どんなに辛いことがあったとしても、一度は必ず許す
ということです。
どうしても自分だけでは整理しきれない部分はどの関係性であれ起こりうることです。だからこそ、そこに一歩立ち止まって「一度許す」ということをしなくてはならないということを思い出しました。
仮に自分がもし相手と逆の立場であったら。
自分のした行いによる一度の失態で、今までのもの全てを失うような事になったら。
それは本当に僕が人としての絆を学んでいないことになってしまう。
誰しも失敗や失態はしますし、自分だってその連続です。今回が相手側であったからと言って、今度自分がその失態をしないという保証はどこにもありません。
本気であればあるほど、それは簡単なことではないのかもしれませんが、
本当の信頼はこの「許す」という行為からスタートするものだと思います。
https://youtu.be/1VzCOz7nt2o?t=12
(こちらのURLからどうぞ!)
路線は全然違うのですが、ぜひとも紹介したくてお話しします。
これはぜひともこの方の話を全部見て欲しい動画です。
これは僕の友人との直接的な関係は全くないのですが、この葉山潤奈さんのYouTubeで元彼の話をしていますが、葉山潤奈さんの最後のお父さんのお話に本当に感銘しました。
彼女は現在、株式会社Joint M's Japan 代表取締役、兼YouTubeでメッセンジャーとして多くの人に向けた「人とのつながり」についてのメッセージを動画で提供する活動をしています。
葉山さんの場合、彼氏さんとのお話ですが、その教訓から学ぶことは数多くあります。僕が衝撃を受けたうちの一人です。
この方のお父さんも、「許す」ということの大切さを教えています。
僕の経験の何倍も強烈な出来事の連続ですが、そこから学べたことは何よりの財産になるのです。
いろんな状況になる中で、本当に他人のために必要なことは何かということを、今回は信頼を軸に学ぶことができました。
この一つのきっかけが繋がり、また人との関係でそれが強固なものになっていくことを切に願います。
成功する!ではなくて成功しましたを大切に。受験から学ぶ感謝の気持ち
今回は僕の母親が話してくれたお話です。
事は遡り、僕が高校三年生の受験シーズン、一点でも合格点に近づく為に四苦八苦していた時期です。
大学受験を経験した方はわかると思いますが、受験の重圧とストレスはそうとうなものです。この時期の自分の精神状態は本当に疲弊していました。
大学に受かりたいという衝動、受からなければという責任、いつまでやっても勉強が終わらない焦り。
いろいろな感情が入り混じりながらこの壁を乗り越えなくてはなりません。
受験というのはなんとも残酷で、合格点に一点でも届かなければ受かる事はできません。そして一点でも合格点に満たせていれば、大学に入ることができます。その境目の凌ぎは熾烈な戦いを強いられます。
よく先生が「勉強はやればやるほど伸びるからとにかく勉強しろ」という話を聞きますが、私はあまりそうは思えません。
もし時間を重ねるだけ、回数をこなすだけで成績が比例的に伸びるのならば、日本中これほどまでの塾や予備校は存在しない筈です。
勉強をする以前に、人間は「感情」という1つの壁が存在します。その感情は、非常に扱うことが難しいのです。
調子がいい時や成績が伸びているときは楽しくて精神も安定していますが、とりわけ受験期でやってもなかなか伸びない時期に差し掛かると、時間に見合わない結果が自身を困惑させ、本来自分が持っている力を発揮することすらできないことなどはよくあることです。
残念なことにそれが本番でそうなってしまったという事例もあります。
人は基本的に、やらなくてはならないという強い重圧の中で結果を残すことは、想像以上に難しい話だと思います。
志望大学に受かりたいと思っても、結果はいつもE判定。やればやるほどその壁を感じず入られない。そして現役で受からないとこの物事を続ける体力がない僕にはもう未来はない。
当時の精神を省みても、やはりこれ以上無いくらいのキツさを感じていたと思います。
拍車をかけるように、受験期は空気が張り詰めます。少しでも勉強しなくてはという思いから、バスや電車の中で常にシス単などの英単語帳を時間があれば読んでいました。
けれどそれは身の入った勉強ではなく、ただの気休め。勉強していることで安心感を覚える薬に過ぎないものでした。
身の入らない勉強で、時間や労力に見合わない結果を見るたびに痛感させられます。
成果が出せないその背景には、「成功したい」という強い圧力みたいなものを常に背中で感じていた。
しかし、そう思うほど結果はついてきません。成功したいという気持ちの持ち方を間違えるとただ自分を締め上げる凶器になってしまうのです。
別にやる気がないとか、受かる気がない訳ではありません。むしろそれだけ受かりたいという気持ちが強いほど、今どうしていいのか分からなくなってしまうという状態です。
そんな状況の僕を、母はこう言ってくれました。
「成功しようと思うんじゃなくて、成功しましたと感謝する気持ちを持ちなさい」
これは僕にとって完全に盲点だった指摘です。成功することばかりに執着して、成功した後の自分の姿を見落としていたんです。
それを示してくれるかのように、母は受験当日間近の数日(田舎から都心部の受験だったので、ホテルを借りて受験期を過ごしました)は殆ど勉強を促すことは言いませんでした。
受験数日前から受験日の僕の生活はこんな感じでした。
朝はホテルのバイキングで朝食を済ませ、お昼まで街をぶらつき、昼過ぎにカラオケとボーリングを楽しみ、夜は美味しいレストランで団欒。参考書等を一切開かずにひたすら娯楽を楽しみ受験日前日を過ごす。
受験生とは思えないような生活を過ごしていたのです。受験なめてんのかと思う方もいるかもしれません。
しかしおそらくその背景には、僕に無駄なプレッシャーを与えて欲しくないという想いがあったからこそ、勉強とは真逆のアプローチで僕を支えてくれたのだとおもいます。
成功をするプロセスは、成功するまでひたすら努力を積み重ねるだけでなく、
いかに自分の成功した後の状態の精神を保つことができるか。
ゴールにまで向かう道は一つではなく、それだけ自分の心と体を第一に考えなければならないことに気づかされました。
今までに感じなかった全く新しい側面を学ぶことができたんです。
そして感謝するという側面は、例えば受験で言うならば、「戦ってる人は自分だけじゃ無い」という事です。
よく受験時代に「受験は団体戦」と言いますが、僕の思う団体戦は少し違っていて、その団体の対象は共に立ち向かう受験生やクラスメイトではありません。
自分をここまで支えてくれた家族や友達や先生、その環境のことを団体と言い、そういう方達に向けた感謝を忘れてはいけません。
今回は受験の話でしたが、受験に留まらず、すべてにおいて何か挑戦する時に忘れてはならないことだと僕は思います。
結局受験は難関の第一志望には受かりませんでしたが、自分が行きたいと思える大学に合格することができました。しかしそれも母の言葉がなかったら、あの時の精神を考えたらどこにも受からなかったのだろうと感じます。
成功すると強く願うのではなく、成功した自分を描いた上でそのことに感謝する。それは結果を残すことや相手を見返す以上の価値のあるものだと、身をもって体験出来たことです。
あの時の母の言葉には感謝しなくてはいけませんね。
憧れた瞬間からその人を超えることはできない
世の中生きているといろんな人に出会い、またいろんな人の行動や言葉に影響されます。とりわけ自分にとって憧れる人、自分の中のスターの人になってみたいと、身近な関係であれ芸能人関係であれどんな人でも一度は思い描くものです。
「こんな人になりたい。」
「この人のような言葉を言えるようになりたい」
そのような気持ちを抱くことは誰にもあると思います。
実際に自分の憧れの人を見たとき、多くの人は現在の自分と比較します。
「あの人はこんなにできていることが、自分には全然できていない」
たとえそれが外見やスキルといった話でなくとも、中身の人間性、その人自身が持つ信念、全ての領域でどうしてもギャップを抱えてしまいます。それが時にいい方向に向くときもあれば、自分と他人を比較して自己嫌悪に陥る負の側面も同時に存在しています。
自分にとっての憧れの存在とは、未来の自己を映し出す鏡です。
たとえそれが自分とは全く性格も価値観も違うものであったとしても、自分自身の中でその人が光るものを見つけたからこそ憧れの存在の人のことを強く思うんです。
それは単なる好きという感情や、自分のそばにいたいというだけの存在ではありません。
今自分の中に足りていないものを、自分にはない憧れの人がそれを証明してくれている。そう言った考え方もできるのではないでしょうか。
憧れの人を見続けるというのは、かえって残酷なことでもあるんです。それが未来の自分を映し出す鏡であるとするならば、嫌でも現実の自分を見続けなくてはならないからです。
たとえばとある有名サッカー選手に憧れていて、自分もそんな輝かしい選手になりたいと思っている時、その選手に比べて自分は全然足りていないという現実を次から次へと見させられることになります。
サッカーとしてのセンス、練習に対する意識、その時に超えていなければならない壁、それらすべてを自分と比較した時に、それができていない自分を、時に責めてしまうこともあるかと思います。
憧れを持つ人に対して自分と色々比較してしまうのは、かえって逆効果であったりもします。もちろんその人のおかげで自分は救われたということは当然なるし、だからこそ自分にとって大切な人だというのも間違いありません。
しかし時に、その憧れの人に近づきたいという衝動を必要以上に強く思ってしまうことで、自分のことを苦しめてしまうこともあるのではないかと思います。それを”憧れは憧れで自分とは違う存在”として分けることができるのならばそこまで大変ではありませんが、人はそんなに単純に切り離したりすることはできないでしょう。
ここまできて僕が考えるのは、
憧れの人は自分とは違う存在で、そこに優劣の差は感じなくていい
ということです。その人と自分をどうしても透視しまいがちですが、根本的にまず自分とその人は違う存在です。そこに"できるあの人"と"できない自分"という、いわば「優劣関係」は感じる必要は全くありません。
人は誰しも優れた部分もあれば足りない部分がある。そのバランスがあってこそ成り立っています。
もし自分をよく他人と比較して落ち込んだりしている方には感じて欲しいことは、全てにおいて自分より優れている人なんてまずいないということです。
どんな人でも必ず持ち味があり、憧れを持つ人は自分に欲しいものが揃っているからなおさら憧れを抱くのです。けれどひょっとしたら逆にその人が自分に対して違う憧れを持っていることもあり得るのです。
憧れの気持ちを強く持ちすぎて、自分がそのことにばっかり意識を向けてしまうと、その人を超えることはできなくなってしまいます。
その対象が人ではなくても、欲しい才能や手に入れたいものでも同じことが言えて、欲しいと思っている気持ちが強くなればなるほどその夢が逃げていってしまうものなんです。
そして手に入ることができなかった自分を今度は攻めるようになり、余計に苦しんでしまうこともあり得ます。だからこそ、憧れの人や物はそもそも自分とは違う存在であるという気持ちが非常に大切になってくるのです。
もちろん憧れを持つことは非常に大切です。
憧れるものがあるからこそ、自分の目標として頑張ることができる。
ただその憧れの持ち方を慎重に考えなければ今度は自分を苦しめてしまう側面もある
ということを忘れてはいけません。
自分を映し出す鏡であることは、言い換えればそれはいいようにも悪いようにも両方で捉えることができてしまうのです。だからこそ、そういった自分を卑下してしまうことにもなりかねないので注意が必要です。
今の自分に持っている才能やいいところをしっかりと認めて上で、自分の掲げる目標に近づくことが、一番大切な心の持ち方になるのではないでしょうか。